昭和 4年 2月26日 | 広島県東広島市豊栄町安宿(あすか)生まれ |
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昭和31年 | 藤岡工業入社 |
昭和38年 10月 1日 | 水野工業所 創業 |
昭和42年 5月10日 | 有限会社 水野工業所 設立 |
平成 3年 6月 5日 | 株式会社 水野工業所 へ移行 |
平成16年 2月18日 | 没 |
趣味 | 藍染筒描古布をはじめ民具農具の収集 |
筒描の藍染め古布に魅せられ、収集を始めて三十年になる。大祖父が紺屋を営んでいたので、幼いころから何となく藍の香りの中にいた。明治末期に欧州から安価な化学染料が入り、植物染料の藍では採算がとれなくなって、一代限りで終わった。
藍染めは藍瓶に入れた染料に、繰り返し浸して染める。一回だけ浸せば「瓶覗き」と言う淡い色で、回数を増やすごとに「浅黄」「紺」「茄子紺」と青色は濃くなっていく。バリエーション豊かな自然染料である。
筒描は柿渋紙の筒に入れた防染糊を絞り出しながら、自由に糊を置いて模様を描き染めたもの。型染めでは表現できない大胆で、個性豊かな構図に伸びやかな線が魅力だ。慶事の贈り物として注文されてきた。
嫁ぎゆく娘に持たせてやった「吉祥模様」(松竹梅に鶴亀、桐に鳳凰、唐獅子に牡丹、海老など)に家紋入りの掛け布団やふろしきなどは、もったいなくて使えなかったのだろうか、保存状態が良く美しいものが多い。
「 熨斗」に花模様のものは、「娘を差し上げます」という意味が込められており、男性に従属しなければならなかった時代のあかしである。
孫の誕生日に贈られた湯上げは、一角だけ朱く染められており、その部分で顔をふく。朱は疱瘡を防ぐという。錨の模様のおしめには、子供も産まれたのだからそこに錨を下ろして、その家の人間になってほしいという親の励ましが含まれている。
筒描の模様に、当時の庶民の願いが込められている。化学染料の開発がもう少し遅れていたら、私は寡黙な藍染の職人であったかもしれない。
平成12年 1月17日 月曜日 中国新聞夕刊「でるた」掲載記事より
月刊「染織α」No.266 2000年1月 インタビュー記事より
「一代限りでしたが、ひいお祖父さんが紺屋を営んでいて、幼い頃はいつも藍の香りの中で暮らしていました。それがこれらを集めるようになった原点に在るんでしょう」
広島市中区に住む水野義之さんが筒描き藍染めの古布を収集するようになったのは約三十年前。もともと古い物を観て回るのが好きで、民具や民芸品の収集をする一環で古布も集めるようになったという。現在、その点数は三百点を越える。華麗な模様が配された嫁入り布団や祝い風呂敷、箪笥長持などに掛ける油單、産湯に入れた赤ちゃんの身体拭き用の湯上げや足拭き、おしめ、古裂を継ぎ重ねて当てた庶民の寝具である襤褸の布団など、昭和初期までのものが中心。
筒描きは、渋紙の筒に入れた防染糊を絞りだしながら自由に糊を置いて模様を描き染めたもので、大胆で個性豊かな構図が多く、型紙では表現できない伸びやかな線が魅力だ。
水野さんのコレクションの中には、京都の東寺や北野天満宮、大宰府の骨董市へも足を延ばし、直接購入したものもある。市には僅か千円の布から三十~四十万円もの布まで様々な品が並んでいるそうだ。また何軒かの古物商に出物があれば知らせてもらえるように声を掛けておいて求めたりもする。しかし最近はいい物になかなか出会えなくなってきているという三十年の長きに亘り、ゆっくりと吟味を重ねて精選された布だけあって最高ランクのものも揃い、水野さんの目の確かさが窺える。いい古布の見分け方のコツはと聞くと、やはり沢山の数を見て目を養うことに尽きるという。「高い値段がついているからといって必ずしもいいものとは限らないんです。初めて買うのであれば使い古されたもの、それも洗い晒されて、藍の色が冴えて美しくなったものを選ぶとまあ間違いはないと思います。手織と機械織、手紡ぎ糸と紡績糸を見分けることも大切」
明治から昭和にかけて、庶民にとって藍の色は生活の色であり、衣服も普段着にしろよそ行きにしろ藍で染めたものが基本で、布団などにも藍のものが使われていた。また、藍染めに筒描きで模様を入れたものは、嫁入り支度や孫拵えに重宝された。「嫁いでいく娘に持たせてやった吉祥文や家紋入りの布団なんかは、そりゃあ見事なもんですよ。これらは保存状態が極めてよく、綺麗なものも多いんです。それは日常生活の中で使われていなかったということなんです。勿体なくて使うに使えなかったんでしょう」
紺屋に特別に依頼してしつらえる嫁入り布団にも、砧打ちした木綿の藍地に、多彩な色を挿した豪華な吉祥文が隅々まで詰まった六幅のものもあれば、家紋だけを入れたもの、浅葱色のみのものなど様々な布団がある。しかし生家の経済力の差から生じる質の違いはあるにしろ、嫁ぎゆく愛娘の幸せに精一杯の祈りを籠めた親の想いは同じだ。そして孫が産まれた時に生家から贈られた藍染めのおしめには、錨の模様が染め込まれている。子供も産まれたのだから、そこに錨を下ろしてその家の人間になってほしいという親の励ましや願いの意味を含んでいるという。またおしめと同様に贈られた湯あげには、一角だけ朱く染められた部分があり、そこで産湯からあげた赤ちゃんの頭を拭いてやるそうだ。顔とお尻を一緒の場所で拭いたら出世しないとのこと。「昔はそんな訓戒や風習がとても大切にされてきたんです。一枚一枚の模様に込められた意味が感じられるのも布を収集している魅力ですね」
一九九六年、水野さんは広島市内で初のコレクション展を開き、大勢の来場者が訪れ反響をよんだ。またその際、コレクションは、ひいお祖父さんが紺屋を営んでいた敷地内の山裾に湧くきれいな湧水に因んで、“寶水堂コレクション”と称した。会場には明治から昭和初期までの藍染と襤褸の布団表を中心に展示構成した。
当時、他の物価と比較すると布類は高価であった。貧しい庶民の暮らしにおいては布は極めて大切に扱われ、破れれば当て布を繰り返し重ね繕って使うのが普通であった。その継ぎはぎだらけの布を指して襤褸と呼ぶ。
水野さんが所有するなかでも特に細かく繕われた襤褸の四幅の布団表を、一枚ずつ付箋を貼りながら端裂の枚数を数えてみたそうだ。「なんと二六八枚あったんです。まあ、この時にはびっくりしたねぇ。端裂の上に端裂が完全に重なっている箇所もあるだろうから、実際にはもう少し数は増えるでしょう。これ程までに継ぎはぎをして、それだけ布を大事にしてたってことなんです」
何度も水を潜り洗練された藍の濃淡が美しい襤褸だが、なかなか手に入れることができない珍品だという。旧家を取り壊す際に出てきたとしても、先祖の貧しい暮らしぶりを恥じて人目に晒すことなく処分してしまうことが多いからだ。
「色彩豊な華やかな嫁入り布団などもあれば、こんな両極端のものもある。でも私はこの襤褸のような布に特に惹かれます。継ぎ当てられ小さな一枚の端裂からでも、当時の庶民の暮らしの息吹や心情がひしひしと伝わってくるんです。そんな暮らし振りを少しでも感じて貰えたら嬉しいと思って」と水野さん。会期中には襤褸を前に涙ぐむ人もいたそうだ。襤褸は、現代における暖衣飽食の過度にまで豊かな生活を、改めて見つめ直す必要性を感じ起こさせる。美術品や工芸品とは異なり、生活の中で愛され培われてきた布たち。次の機会は筒描き藍染めの風呂敷や小物類の展示を中心とした展覧会を開くことを思案中とのこと、どんな布と出逢えるか楽しみだ。 (編集部)